震災後の8年間に多数の「震災復興橋」が誕生!

2023年7月20日

震災後の8年間、東京では425の橋が架け替えや新設。
隅田川の橋では構造によって明暗が分かれた

江戸時代前期に隅田川にあった橋はたったひとつ
徳川家康が江戸に入って始めた大事業は、江戸城のすぐ側にあった日比谷入江(現在の日比谷公園周辺)などの埋め立て、上下水道の背備、運河づくりや川の改修、流路変更による水運のためのインフラづくりでしたが、大川と呼ばれていた隅田川に架けられていた橋は、1594年(文禄3年)に架けられた千住大橋だけで、首都・江戸の防衛上の理由から、その他の橋を架けることを禁じていました。
しかし、1657年4代将軍・徳川家綱の時代に「明暦の大火」が発生し、江戸の町の半分以上が焼失する事態に直面すると、新たな防災都市計画が立案され、区画整理や「広小路」などの延焼防止の道路づくりが始められました。避難路としての橋も両国橋が認められ、1689年に架橋されました。その後1693年に新大橋、1698年に永代橋、1774年に吾妻橋が架橋されました。そして明治になってから厩橋(1893年)、隅田川波流の相生橋(1903年)がかけられた後に大震災が発生したのです。

6つの橋は焼失、崩落などで通行困難に!
関東大震災では、連続発生した強い揺れとその後の大規模火災により、多くの橋が崩落、焼失、破損などの被害を受けました。東京市(当時)では、1923年(大正12年)の震災発生から、昭和初期までの8年間に425の橋が「震災復興橋梁」として再架橋、新架橋されました。
震源地に最も近い横浜市でも橋の被害は大きく、178橋が復興橋梁となりましたが、その内現在も残っている橋を「復興45橋」と呼んでいます。
隅田川の両岸も大きな火災に見舞われ、当時隅田川に架かっていた7つの橋(千住大橋、吾妻橋、厩橋、両国橋、新大橋、永代橋、相生橋)の内、被害が軽微だった新大橋を除く6つの橋が、破損や焼失などの大きな被害を受けました。被害を受けた橋は鋼鉄製でしたが、桁部や床面に木材を多く使用していたため、猛火により致命的なダメージを受けてしまいました。
唯一被害がほとんどなかった新大橋は、1912年(明治45年)に鋼鉄製の橋に架け替えられ、床面は厚鋼板にコンクリートを打設してアスファルト舗装されたため、地震の揺れにも火災にも強く被害が少なくてすみました。そのため、震災時の貴重な避難路として活用され、多くの人命を救ったことから「お助け橋」「人助け橋」と呼ばれました。また、避難した人たちが警察官などの指示に従い、家から運んできた家財や衣服を川に捨てたことで、他の地域で起きたような延焼を免れたとも言われています。

震災後につくられた「帝都復興院復興局」と東京府、東京市(当時)は、この焼失や瓔珞などにより、使用できなくなった6橋を再架橋するとともに、新たに言問橋、駒形橋、蔵前橋の3橋を架設しました。
新たな橋はそれぞれ構造の異なるもので、斬新なデザインが震災からの復興の象徴となりました。それから100年経った今日、隅田川に架かる30近い橋は、夜には美しくライトアップされた観光名所になっています。

▲左:震災で焼け落ちた吾妻橋、右:同アングルで撮影した現在の吾妻橋夜景