関東大震災から4年、新しい街づくりのため復興街路樹計画がスタート

2023年9月29日

174本の「幹線街路・補助線街路建設」が始まる

総延長750kmの大事業計画
 明治維新後の新首都・東京の道路建設事業は、大正7年(1918)までに延べ175kmを終了していました。翌年には都市計画法が制定され、大正10年(1921)に延べ103.1kmの新道路の建設計画が決定されました。しかし、この2年後に発生した関東大震災により、被害の大きかった下町の道路再建に重点を移しました。
震災復興計画の中の道路計画事業は多くの議論の末、昭和2年(1927)に東京の南北を結ぶ昭和通りと、東西に走る大正通り(現在は、靖国通りに改称)を軸とし、それに並行する形で52本の「幹線街路」、122本の「補助線街路」が計画されました。他の地域に設置された道路も含め、整備する道路の総延長は750kmにもなりました。
大震災前から計画され一部が着工されていた内堀通り、外濠通り、明治通りなどの環状線と、都心と郊外を放射状に結ぶ幹線放射道路を建設し、長期的な視点で街づくりをしようという構想はありましたが、予算等の関係から被害の大きかった下町を中心に、残った既存道路を活かした建設事業になりました。

この時点では地下鉄ネットワークを建設する構想もありましたが、昭和2年(1960)に上野と浅草間2.2kmに東洋発の地下鉄を開業、その後小刻みに路線を延長して昭和15年(1940)に渋谷・浅草間の14.2kmを結ぶ、現在の東京メトロ銀座線ができあがりました。東京の地下鉄ネットワークは、長時間をかけて作られましたが、路線の多くは、関東大震災後の地下鉄構想とほぼ一致しています。
このときに建設された幹線道路は、昭和通り、靖国通り、永代通り、晴海通り、八重洲通りなど、現在も東京の幹線となっている道路です。

新しい幹線道路の名称は公募で決まった
道路建設の南北の軸となったのが、台東区から港区新橋までの「第1号線」(現在の昭和通り)、そして東西の軸となったのが新宿から中央区浅草線を結ぶ「第2号線」(現在の靖国通り)でした。
第1号線は、幅員72mの広い道路として計画されましたが、予算が縮小され、幅員も44mで建設されました。第2号線は、九段坂、市ヶ谷などアップダウンの激しい地形で、急坂を削り平坦にする工事で幅員32mの道路が作られました。
これらの道路建設完了後に、東京日日新聞社(現在の毎日新聞社)が主催して、幹線道路のうち22本の道路の名前を公募して愛称を決定しました。

< その他の幹線道路の公募愛称 >
第 8 号線 = 千代田通り、第 9 号線 = 議員通り、第 10 号線 = 江東通り、第 14 号線 = 厩橋通り、第 15 号線 = 言問橋通り、第 16 号 線 = 福砂通り、第 17 号線 = 清砂通り、第 18 号線 = 昌平通り、第 19 号線 = 青葉通り、第 20 号線 = 四ツ目通り、第 21号線 = 三 ツ目通り、第 22 号線 = 蔵前橋通り